WORK OUT 兵庫県の地場産業を知る

兵庫県下に点在する伝統ある地場産業

兵庫県下には地場産業と称しているものが約50種存在している。

これは、条例や法律に指定されたものではなく、中小企業庁の定めた

地場産業実態調査等事業実施要項の概念規定に該当するものである。

下記のリストに兵庫県各市町村の地場産業がご覧いただけます。

明石市

品名 説明
粘土瓦

明石地方では室町末期に社寺、築城用に作られていた。これが江戸中期に至り、当時の明石城主松平直明が歓業政策のひとつとして採り上げて以来盛んとなり、県下各地で生産されるようになった。 現在では、淡路地方を中心として姫路、丹波方面等においても生産されているが、平成7年に発生した阪神•淡路大震災の際の、瓦の重さが家屋倒壊の一因となったとする説の流布によりイメージダウンが甚だしく、いまだに尾を引いている。 業界では、当時瓦の無償提供キャンペーン、その後テレビCMの放映、パンフレットの配布などの対策を講じ、イメージ改善に努めながら新商品開発など販路の拡大に努めている。特に淡路瓦は、県内99%の粘土瓦を製造し、近年の飛躍的な製造技術の向上により、寒冷地でも使用が可能となり、販路の拡大、需要喚起に向け鋭意努力している。

          
マッチ

わが国のマッチ産業は、明治9年頃東京で始まり、急速に国内市場を満たすと輸出中心の産業になった。そのため、貿易に有利な大阪•神戸近辺に業者が集積した。さらに、労働力や技術的な条件などもあり、兵庫県が全国のほとんどと生産するようになった。 その後、輸出不振、外国企業の進出、過当競争等数々の変化を克服した業界は、昭和27年に組織化され業況も安定するようになった。昭和40年代からマッチの需要の中心が広告用に移り、供給体制も大きく変化せざるをえなくなり、設備の近代化を中心に業界の体質改善に成功した。 現在も日本の広告マッチは、欧米をはじめ世界各国へ輸出されている。 しかし、使い捨てライター等の普及により、マッチの消費は大幅な減少傾向にある。業界は需要の落ち込みに対応するため、培った経営資源を利用して、土地の有効活用(駐車場•テニスコートなど)、ラベル印刷技術を活かした印刷業界への進出、広告マッチ販路を活かした販促商品の開拓(紙おしぼり•ティッシュペーパーなど)、その他の分野へ経営の転換•多角化を促進している。 平成17年には国産マッチ生誕130周年記念式典を神戸で挙行し、新たな歴史を刻んでいる。 マッチに関しては平成19年度から新商品開発部会を組織して、需要開拓の方策を継続して検討する中で、防災用缶詰マッチという新たなジャンルを開拓した。 平成21年にはマッチ専門店を業界で運営するなど、新しい取り組みを始めた。

赤穂市

品名 説明
赤穂雲火焼
兵庫県指定伝統工芸品

江戸時代後期に始まる赤穂雲火焼は、大嶋黄谷が考案したもので、陶土不明、焼成方法不明の幻の焼物とされていた。 象牙色の陶肌に黒色を加味した赤く燃え上がるような夕焼け雲を連想させる独特の紋様が特徴で、昭和57年ごろに復元に成功し、現在では、赤穂の新しい郷土土産物として親しまれている。

赤穂緞通
兵庫県指定伝統工芸品
 児島なかが、寛永2年(1849年)に創始した赤穂緞通は、鍋島緞通(佐賀県)、堺緞通(大阪府)と並び日本三大緞通と呼ばれており、紋様が非常に際だっていることが大きな特徴である。明治から大正にかけて隆盛を誇ったが、昭和期には一旦途絶えた。 その後、市教育委員会は平成3年、唯一の技術保持者(S59 市指定 無形文化財 選定保存技術)であった阪口キリエ氏を講師に「赤穂緞通織方技法講習会」を企画•実施し 1期生、2期生が平成11年に『赤穂緞通を伝承する会』を立ち上げた。 現在は『赤穂緞通を伝承する会』と、個人工房で生産活動を行う『赤穂緞通生産者の会』が伝統工芸として技術の保存及び伝承に取り組んでいる。

淡路市

品名 説明
線香  淡路線香は嘉永年間(1848〜1854年)、江井浦の田中辰蔵が泉州堺から熟練工を迎え、原料の杉粉を購入して製造したことに始まった。 当時の江井浦は、百余隻の船が長崎•平戸から阪神間の交易に従事していたことから、原料の調達と製品の輸送に便利な立地条件であった。また農漁業の家庭の女性にとって手ごろな内職になったことも、線香製造の発展の要因となった。 淡路島のお線香は、明治初期には久盛香、藤田香として広く各地に知られるようになった。原料は熊野、河内から仕入れられ、販路も拡大された。 大正に入り、杉粉のほか宮崎県のタブの木の皮を製粉した本粉を使用して香料入りの線香を製造するようになった。その後も業者は増加し、大正12年には淡路線香購買販売組合が組織された。組合は地元の投資を得て、品質の向上、販路の拡大に努めた。 業界は戦後一時的に衰退したものの、最近は年々需要が増加し、大手メーカーの工場進出とも相まって、今日では全国有数の産地(他産地として、堺、京都、大阪。栃木がある)として発展している。
粘土瓦  本県における粘土瓦製造の歴史は古く、淡路国分寺(旧三原町)等の発掘調査から奈良時代に始まったと推定されている。 また、明石地方では室町末期に社寺、築城用に作られていた。これが江戸中期に至り、当時の明石城主松平直明が歓業政策のひとつとして採り上げて以来盛んとなり、県下各地で生産されるようになった。 現在では、淡路地方を中心として姫路、丹波方面等においても生産されているが、平成7年に発生した阪神•淡路大震災の際の、瓦の重さが家屋倒壊の一因となったとする説の流布によりイメージダウンが甚だしく、いまだに尾を引いている。 業界では、当時瓦の無償提供キャンペーン、その後テレビCMの放映、パンフレットの配布などの対策を講じ、イメージ改善に努めながら新商品開発など販路の拡大に努めている。特に淡路瓦は、県内99%の粘土瓦を製造し、近年の飛躍的な製造技術の向上により、寒冷地でも使用が可能となり、販路の拡大、需要喚起に向け鋭意努力している。 淡路瓦は寛永年間には現在の西淡町津井を中心に発展し、明治に入って急速な需要の伸びに支えられ産地を形成した。もともと原料粘土が豊富な上に大消費地(京阪神)への近接性 海上輸送の利便などが当地発展の要因である。 当地方では、需要の推移に対応して昭和36年頃からトンネル窯による釉薬瓦の生産技術を導入し、製造を開始した。これが時代のニーズにマッチし、急速に生産量が増加したが、昭和60年頃から建築様式の変化、本物志向等により、いぶし瓦が急速に販売を拡大するにつれて、釉薬瓦製品メーカーも次第といぶし瓦に転換していった。陶器瓦は、現在、時代にマッチした洋風(平板瓦)を製造し、需要を更に推し進めている。他方、伝統的ないぶし瓦は良質の粘土と特有の製法により、優雅な高級品として根強い人気を得、全国の51%を占めている。しかし、震災以降、工業化住宅の伸張から需要が徐々に減少し、現状では、その当時から比べると3割程度の操業になっている。

小野市

品名 説明
播州そろばん
経済産業大臣指定
 そろばんは、室町時代末期に中国から長崎へ伝来したといわれ、中桟の上二つ玉、下五つ玉の中国そろばんが改良され、現在の形となった。  わが国で日常生活に使われはじめたのは、文禄年間(1592〜95)とみられている。当時の数学者毛利勘兵衛重能が、京都二条京極で「天下一割算指南」という道場を開き、多くの人々に珠算を教授したのが全国に普及するきっかけとなった。  播州地方でのそろばん製造は、天正年間(1573〜91)に豊臣秀吉が三木城を攻略した際、大津方面にのがれた住民が、大津そろばんの製造技術を習得し、帰郷して三木•小野周辺で製造を始めたのが播州そろばんの起源といわれている。  そろばん製造は小野市を中心として発展し、全国生産量の多くを占めるに至った。昭和35年頃がそろばん製造の全盛期であったが、①電卓の普及、②学校におけるそろばんの授業時間の減少、③官公庁や一般企業のコンピューター導入、などにより需要は減少している。  しかし、そろばんは古来から持つ機能や、教育的効果が認められ小学校の算数の教科に取り入れられており、最近では脳を活性化させ、集中力や創造力を養い、老化防止にも役立つ用具として見直されてきている。  「播州そろばん」は、昭和51年6月に通産大臣から伝統的工芸品の指定を受け、小野市の地場産業として、小野市•小野商工会議所•小野市珠算振興会が中心となり、振興事業を展開している。
家庭刃物  家庭刃物は古くから小野市を中心に発達し、剃刀、鋏、包丁類の家庭刃物の製造は江戸時代に農家の副業及び家内工業として小野周辺に広まり、三木金物(利器工匠具)とともに地域経済の発展に寄与してきた。  延亭年間(1744〜48)に剃刀(又右衛門、大島町)が製造されたのをはじめ、文化3年(1807)に握鋏(宗兵衛、長尾町)、文化年間に包丁の製造が開始されたと伝えられている。  その後も生産技術の改良や機械化が行われ、特に明治時代に品種が多様化した。明治44年には刃身にさや付けをしたナイフ(井上仁三郎、小野町)が開発され、小刀を改良した現在の包丁が考案された。  さらに、握鋏の不振から昭和5年ラシャ切鋏が研究開発され、池ノ坊鋏、剪定鋏、散髪鋏なども生産されはじめた。このような流れとともに業者数も増大し、小野周辺地域は刃物産地としての基盤を確立した。  家庭刃物業界の業態は、典型的な家内•零細工業として今日に至っているが、時代の流れとともに、近代化され、協業化、機械化が行われている。
播州鎌
兵庫県指定伝統工芸品
播州織は西脇市を中心に加西市、加東市、丹波市、多可郡、神崎郡の四市二郡にまたがり、県下有数の地場産業として成長してきた。 その起源は古く、寛政4年(1793年)比延庄村(西脇市比延町)の大工飛田安兵衛が京都西陣からその技術を導入したことが始まりと伝えられてる。明治のはじめには、津万郷(市内津万)を中心に60〜70軒の織布業者が、機業を営んでいた事実が資料に記されてる。  明治25年には、多可郡縞木綿業組合を設立して組織化が始まり、全国でも類をみない強固な組合精神が現在も受け継がれている。

加古川市

品名 説明
靴下  播磨地域での靴下製造業の発祥は、明治初年に印南郡志方町の住民が、上海から手廻しの靴下編立機を持ち帰り、製造を始めたことによると言われている。 当産地での靴下製造は、大阪の靴下工業の勃興に遅れたため、その製造問屋の傘下に発達した。当初は農作業の副業であったが、明治中期に煙草が官営事業となるに伴い、転廃業者の資金が流入し、産地の基盤ができあがった。  大正初期に半自動式靴下編立機、更に大正13年には自動編立機が輸入されるなど技術革新が進み、また大正12年の関東大震災により当時第一の靴下産地であった東京が致命的な打撃を受けるなどの情勢変化もあって、播磨の産地規模は急速に拡大した。また東南アジアや中国等にも輸出されるようになった。  その後、昭和初期の金融恐慌、戦時の軍需統制などにより業界は大きな打撃を受けたが、戦災を免れたため、他産地よりも立ち直りは早かった。  また、ナイロンを始めとする合成繊維の開発により素材が大きく変わった。それに合わせて生産形態においても、設備の近代化、技術水準の高度化が進んだ。  現在では、奈良県、東京都とともに全国三大産地を形成している。産地の企業形態は、①繊維商社的有名ブランドメーカーの協力工場として生産を行い、百貨店や量販店に商品を供給するもの、②他メーカーの下請けとして半製品や賃加工品を製造するもの、③卸売業務に特化したもの、などの3つに大別される。
兵庫仏壇
兵庫県指定伝統工芸品
 兵庫仏壇は、江戸時代に仏具発祥の地•京都で修行した職人が技術を持ち帰り、京都の下請けとして仏壇を製造したのが始まりといわれている。  合理化、省力化が進むなかで、今日でも天然の原材料を使い、数多くの工程を経て手作業で作り上げられており、伝統的な技術•技法の結晶ともいえる品質を誇っている。

加東市

品名 説明
釣針 加東市、西脇市及び丹波市周辺の釣針製造業は、徳川末期に飢餓救済手段として、土佐の国(高知県)から釣針製造技術が移入され、農家の副業として創始された。  明治末期から大正初期にかけて手工業から機械製釣針に変わり一部設備は動力化され、量的にも技術的にも著しい進歩を遂げた。我が国を代表する釣用品メーカーが存在する一方で、家内工業の零細企業も多く企業間格差は広がっている。産地の特色として、加東市周辺が釣針の単体販売が主であり、西脇市周辺は主として内地向釣針を中心としており、精巧な擬餌針(毛鉤)等の生産も多い。

川西市

品名 説明
皮革(一次生産) 兵庫県における製革業の歴史は極めて古く、弥生時代後期に大陸からの帰化人が鞣製技術を伝え、その基礎を築いたとみられている。その後、江戸時代中期に全国的な商品経済の発達と姫路藩の重商政策のもとに大きく発展した。  当時、既に地域的な分業が行われており、鞣製部門は市川流域をはじめ西の揖保川流域及び東の猪名川流域に沿った地域に発達し、加工部門は姫路城下町の中二階町から東二階町にかけて展開していた。また、原皮は大坂商人を通じて調達され、大地主のもとで村民による賃加工が行われていた。  明治期になって近代的鞣製法が取り入れられ、大正期に軍需専門化が行われ、急速に企業化が進んだ。  戦後は強制的な軍需専門化は分裂し、小規模民需産業として再出発した。業界は、昭和26〜38年の間に著しい成長を遂げ、昭和40年代の後半に入り、経営の合理化や設備の近代化を進展させた。  現在、姫路市の高木•御着•網干、たつの市の松原•誉田•沢田及び太子町などが主な産地になっている。企業数、出荷額では全国の2分の1以上を占め、特に成牛革の生産量は約7割のシェアを誇っている。

神戸市

品名 説明
清酒(灘五郷)  灘地方の酒造の歴史は1624年の西宮における醸造が最初とされるが、伝承的にはもっと古く、元弘•建武の昔から行われていたと伝えられる。 灘五郷、西宮市今津から神戸市灘区までの約12㎞にわたる沿岸一帯を指し、東から今津郷、西宮郷、魚崎郷、御影郷、西郷の五つの郷の総称である。  この地域に酒造業が発達した理由としては、①酒米の横綱「山田錦」の産地である播州平野に近いこと、②鉄分が少なくリンやカルシウム、カリウムを豊富に含む良質の硬水である、西宮の水「宮水」に恵まれていること、③丹波杜氏の酒造技術が優秀であること、④北に六甲山、南に大阪湾と遠く拓けた地形による気候風土が酒造りに適していることなどが挙げられる。さらに、京都や大阪に近いだけでなく、江戸との舟航の便にも恵まれていたことも重要な要因である。  このように歴史的に全国的市場を開拓していたうえ、その経営が専業で行われてきたため経営規模は大きく、生産出荷量は現在、全国の26%を占める日本一の酒どころである。  阪神•淡路大震災では多大の損害を被ったが、各方面からの支援と各社の努力により現在では復興を遂げている。しかし、震災を機に中小規模のメーカーを中心に事業の共同化や、委託製造により販売に特化する企業も見られるなど、産地の構造にも大きな変革が訪れている。   また、酒販免許の自由化等の規制緩和により酒流通•小売業が激変しており、従来の「造り酒屋→問屋→販売店」という販路が崩れ、大手食品卸の参入とスーパー、ディスカウントストアの進出により、酒流通システムに大きな変革の波が押し寄せている。
ケミカルシューズ 神戸のケミカルシューズ製造業は、昭和25年頃に塩化ビニール等の新しい合成樹脂の開発が盛んになり、ゴム製はき物業界がこれを靴の甲皮材に取り入れたことに始まった。その後、材質の改良や接着剤の開発、加工技術の研究等が蓄積され、昭和30年頃製品として基礎が確率された。 神戸の長田区、須磨区にケミカルシューズ製造業者が集中しているのは、①業界の性格が手工業的であること ②流行りに左右されやすいため多品種少量生産が主体であること ③大手メーカーの参入が困難で多額の資本を要しないこと ④この地域がゴム製書物の集積地であり関連業者が多く、下請業者も組織されている等が主な要因とみられる。 昭和36年頃には、石油化学工業の発達に伴い、ポリエステル系、ポリウレタン系等の樹脂が開発され、底材も天然ゴムに変わって合成ゴムが使用されるようになり、再三も飛躍的に成長した。 昭和40〜46年頃には、比較的順調に推移し、輸出比率もピーク時には45%に達したが、昭和47〜48年の総需要抑制、金融引き締め等の政策と、ドルショック、オイルショック等の経済変動により、輸出が激減した。その後の平成景気により業況は若干好転したものの、バブル崩壊による不況と円高による輸入品の攻勢がケミカルシューズ業界の構造的な低迷に追い込んだ。さらに、平成7年の阪神・淡路大震災は産地に深刻な被害をのもたらし、現在、日本ケミカルシューズ工業組合企業の精算金額は震災前の約7〜8割にとどまっている。  業界は、逆境に対処するため、知識集約化を指向した新技術の開発・デザイン開発・企画設定等の事業を実地している。特に震災後は復興のために、「くつのまち・ながた」構想を推進している。対象は区画整理と再開発地域に指定されたJR新長田駅周辺の約90ヘクタールで、ケミカルシューズ業者の「工業アパート」や展示スペースから成る「シューズプラザ」などにより工業と住宅を集約する。ケミカルシューズ業界は、地元住民や行政と協力し、魅力ある「くつのまち・ながた」の構築を通じて復興を図っている。 平成11年4月には、神戸市が東京・青山にオープンしたアンテナショップ「神戸ブランドプラザ」を開設した。その後、平成14年度からは場所を代官山に移し、情報の受発信をしていたが、初期の目的を達成したとして平成16年3月に閉鎖された。  一方、「くつのまちながた」の中核施設として「シューズプラザ」が平成12年7月にオープンし、情報の受発信基地として役割を果たしている。将来的には生活と産業が一体となった地域社会の形成こそがケミカルシューズ産業発展の基本的な考えであり、しんながたちくのを中心として核となるべき施設の誘致やシューズギャラリータウン構想を実現させ全国的にも例を見ない個性溢れる「くつのまち・ながた」を形成し、日本各地あるいは海外からも注目される「人が集まる街」、「夢の持てる街」にすることが産業発展の礎
神戸家具  神戸はわが国の洋家具の発祥地である。明治の初め、四国の塩飽諸島から出稼ぎにきた船大工の真木徳助が現在の中央区加納町あたりに製作所を設け、神戸に持ち込まれた外国製家具や船舶装備品などを見よう見まねで製作を始めたのがその最初と伝えられている。 以降、時代を追うに従って専業化が進み、明治末期には5つの洋家具工場と椅子•テーブル類の工場数社を数えるまでになったほか、神戸市西洋家具商組合と神戸家具師組合が結成されるなど組織化も進展した。  大正期には家具全体の3割が洋家具になるまでウェイトは高まったが、大正10年からの不況で企業の離合集散が進んだ。しかし、この時期に外国人を通じて採り入れた新しいデザインや技術がその後の神戸家具の発展の礎となったことは見逃せない。  昭和期に入ると、それまで外国人からの注文が大半だった神戸の洋家具にも徐々に一般家庭からの注文も入りだし、洋家具市場の拡大につながった。  戦中は資材不足から生産中断を余儀なくされる企業もあったが、戦後は一早く生産を再開し、昭和23〜24年頃には製造がほぼ軌道に乗るまで回復した。以降は一般市民向け用途の増加とともに、船舶のインテリアや国鉄•私鉄向けインテリアなども大きな比率を占めるようになったが、船舶関係が大型客船の減少によりレジャー用クルーザーに主体が移り減少するなど、現在では一般市民向け用途が中心となっている。  既に、神戸の洋家具は歴史と伝統に支えられて全国に浸透し、高級和洋家具分野で独自のデザインを案出するなどにより高い評価を受けている。  平成7年の阪神•淡路大震災では、神戸の中心地に居を構える販売店の開店が平成9年にずれ込むなど復興が遅れた企業もあったが、生産工場は被災の程度が軽かったこともあり震災後比較的早期に立ち上がった。
真珠加工
有馬の人形筆
兵庫県指定伝統工芸品
 吉川町では、古くから農業の副業として竹籠が作られていたが、美吉籠の始まりは、明治18年、戸田甚之助が竹細工土産品を創作し、有馬湯治客に販売したことに由来する。  その独自の網目模様は、正倉院の宝物の中に収蔵されている華籠の技法を研究したもので、主原材料の竹は、吉川町から産出される苦竹と淡竹のみを使用している。その横編み技法は「二本とび網代編み」と呼ばれ、全国的にも珍しい独特の技法を誇っている。 
有馬籠
兵庫県指定伝統工芸品
 伐採した竹を細かい手作業で竹ひごにし、さまざまな編み組みにより容器等を編んでいく有馬籠の歴史は16世紀の桃山時代に始まるといわれている。  明治時代には、ウィーン万博に出品されるなど高度な技巧が評価された。また、第2次世界大戦まで隆盛を極め、九州別府にも有馬から職人が出向き、技術を伝えたといわれている。  茶華道向けの高価な籠から、日常生活に浸透した果物盛り器など多様な籠がつくられている。

篠山市

品名 説明
丹波立杭焼
経済産業大臣指定
丹波焼きは、瀬戸、常滑、信楽、備前、越前とともに日本六古窯のひとつに数えられ、その発祥は平安時代の終わりから鎌倉時代の初めと言われている。 丹波焼きは大別して穴窯時代と登窯時代とに分けられ、桃山末期までの400年間は六窯が使用されていたが、その後の江戸時代初期以降は現在も使われている朝鮮式半地上の「登窯」に替わった。 登窯は別名「蛇窯」とも呼ばれ、傾斜面を利用して8〜9の焼成室が連房式になっている。この中を火が焚き口から斜面に沿って上へ抜けていく直炎式の構造を有する。登窯方式は、穴窯方式と比べて火の通りが良く、焼成時間が3分の1程度で済み、量産に適しているなどの利点がある。 近年は連房が4ほどのミニ登窯が多くなっている。先年、丹波立杭窯の作窯技法が国の無形文化財として指定されたのは、今日に至るまで使用されている登窯が日本では珍しい古い形式の窯で、その構造を永く記録するためである。 穴窯時代の作品は壺や甕が主で、紐土巻き上げづくりの無釉であったが、登窯の使用とともに"蹴ロクロ"どくりとなり、灰釉、赤土部釉、石黒釉等の釉薬も使用されて作品の種類も増加した。江戸時代になって小堀遠州などの指導により、茶器類分野で「遠州丹波」と呼ばれる優れた名品が生み出され、当時の茶人の絶賛を博した。 現在、生産されている主なものは工芸民芸品(花器、茶器、茶碗、食器、装飾品、置物等)及び工業品(植木鉢、酒樽等)である工芸民芸品は古来からの伝統技術に新鮮美を加え、釘彫り、葉文、印花、流し釉、筒描き、墨流し等の装飾・文様は現在でも行われている。成形は蹴ロクロを用いるが、これは立杭独特の左回転で登窯とともに伝統技術を受け継いでいる。工業品の各種成形には機械ロクロの鋳込法を用い、近代的な窯で統一された品物が作られており、益々新機軸を加えつつ産地を挙げて精進している。 阪神・淡路大震災では、大消費地のひとつ神戸・阪神地域の需要が急減したものの、半年程度でほぼ戻り、現在は概ね震災前の水準を維持している。後継者や高齢化に悩むことの多い地場産業が多い中にあって、丹波焼は若年層の円滑な参入により産地の活性化が進んでいる。 なお、昭和53年2月に通産大臣より「丹波立杭焼」の名称で国の伝統的工芸品に指定され、現在62の窯元が伝統の火を燃やし続けいている。
丹波木綿
兵庫県指定伝統工芸品
 江戸時代末期に始まる丹波布は、明治末ごろまでは「佐治木綿」とよばれ、綿から紡いだ手紡ぎ糸を縦横に用い、屑まゆから採った「つまみ糸」を横糸に交織させるため、通常の木綿布と風合いが異なっている。  藍、山桃、こぶな草などの植物染料を用いて染め上げた糸が織りなす縞や格子柄は、素朴な温かさを持っている。  丹波布は綿から糸を紡ぎ、手織りばたで織り上げるのが特徴で、現在ではこのような織物は非常に珍しい存在となっている。

三田市

品名 説明
三田鈴鹿竹器
兵庫県指定伝統工芸品
 三田鈴鹿竹器は、良質な竹を求めて訪れた四国の竹細工職人が技術を伝えたのが起こりといわれ、江戸時代中期頃より広く名が知られるようになった。当時は、農家の副業として民具、農具を中心に製作されていた。大正の頃より、専業の地場産業として急成長し、最盛期(昭和30•40年代)には約60軒が生産に従事するほどであり、植田家も20軒(従事者40〜50人)程度を抱える問屋として栄えていた。2代目の時(昭和10•20年代)にはイースター祭、ビニールやプラスチックの籠、中国の柳製品等格安の製品に押され次々廃業。現代は4代目に当たる植田一彦(竹仁斉)氏一軒のみが伝統を守っている。

宍粟市

品名 説明
手延素麺(播州)  播州手延そうめんは、①揖保川の良好な水質、②周囲を流れる河川を利用した水車製粉、③近隣の農村での良質な小麦の生産、赤穂の塩など恵まれた地域資源の存在、④冬場の乾燥した気候、⑤勤勉な農家労働力 これらを背景に発展してきた。  その歴史は古く、地元の神社に室町時代の古文書が残されている。技術的には、江戸時代の文化年間(1804〜1817)に、揖保郡神岡村(現 たつの市神岡町)の森崎忠右衛門と宝山常右衛門が摂津国灘目(神戸)から素麺製造の新しい技術を持ち帰り、間もなく近在の農村に普及し、農家の季節的な副業として産地が形成された。  また、文政年間(1818〜1829)には灘目産地が採用している株仲間を参考にして組織化を図り、龍野藩により龍野の物産として積極的に保護されて、発展した。幕藩体制が崩壊し廃藩置県が行われると、地場の有志が同業組合と似た明神講を組織して、事業の取締り、職工賃金の標準化、水車粉ひき賃の協定などを定め、製品の改善に努めた。これが今日の協同組合の基礎となった。  現在、「揖保乃糸」はきめこまかい味で知られ、生産量では全国の約40%を占めている。しかし、例年10月〜4月の限定生産であるため、近年、生産者の高齢化等による後継者不足が冬季労働力の確保を困難にし、生産の中心は北部の宍粟市周辺に移行している。そのため組合を中心とする手延そうめん業界は合理化による生産性向上を図っている。
線香  淡路線香は嘉永年間(1848〜1854年)、江井浦の田中辰蔵が泉州堺から熟練工を迎え、原料の杉粉を購入して製造したことに始まった。  当時の江井浦は、百余隻の船が長崎•平戸から阪神間の交易に従事していたことから、原料の調達と製品の輸送に便利な立地条件であった。また農漁業の家庭の女性にとって手ごろな内職になったことも、線香製造の発展の要因となった。  淡路島のお線香は、明治初期には久盛香、藤田香として広く各地に知られるようになった。原料は熊野、河内から仕入れられ、販路も拡大された。  大正に入り、杉粉のほか宮崎県のタブの木の皮を製粉した本粉を使用して香料入りの線香を製造するようになった。その後も業者は増加し、大正12年には淡路線香購買販売組合 が組織された。組合は地元の投資を得て、品質の向上、販路の拡大に努めた。  業界は戦後一時的に衰退したものの、最近は年々需要が増加し、大手メーカーの工場進出とも相まって、今日では全国有数の産地(他産地として、堺、京都、大阪。栃木がある)として発展している。
播州山崎藍染織
兵庫県指定伝統工芸品
 宍粟群をはじめ播州地域に古くから藍作りが行われていたが、江戸時代、阿波徳島藩が藩州から藍を移植し、阿波藍が発展するようになると、次第に藩州藍の生産は減少し、現在では生産されなくなっている。山崎町にも昭和初期頃まで、紺屋が多数あり川戸縞と呼ばれる木綿縞をはじめとする藍染織が織られていた。  正木氏は昭和53年から当地での藍染織復活に取り組み、多年の努力により現在では着物やテーブルセンター等本藍による製品づくりに成功している。平成11年イタリアのミラノコレクションに作品を出品、平成13年には、兵庫県ふるさと文化賞を受賞した。その他、神戸市ファッション協会でのイベントにも出品している。

太子町

品名 説明
マッチ  わが国のマッチ産業は、明治9年頃東京で始まり、急速に国内市場を満たすと輸出中心の産業になった。そのため、貿易に有利な大阪•神戸近辺に業者が集積した。さらに、労働力や技術的な条件などもあり、兵庫県が全国のほとんどと生産するようになった。  その後、輸出不振、外国企業の進出、過当競争等数々の変化を克服した業界は、昭和27年に組織化され業況も安定するようになった。昭和40年代からマッチの需要の中心が広告用に移り、供給体制も大きく変化せざるをえなくなり、設備の近代化を中心に業界の体質改善に成功した。  現在も日本の広告マッチは、欧米をはじめ世界各国へ輸出されている。  しかし、使い捨てライター等の普及により、マッチの消費は大幅な減少傾向にある。業界は需要の落ち込みに対応するため、培った経営資源を利用して、土地の有効活用(駐車場•テニスコートなど)、ラベル印刷技術を活かした印刷業界への進出、広告マッチ販路を活かした販促商品の開拓(紙おしぼり•ティッシュペーパーなど)、その他の分野へ経営の転換•多角化を促進している。  平成17年には国産マッチ生誕130周年記念式典を神戸で挙行し、新たな歴史を刻んでいる。  マッチに関しては平成19年度から新商品開発部会を組織して、需要開拓の方策を継続して検討する中で、防災用缶詰マッチという新たなジャンルを開拓した。  平成21年にはマッチ専門店を業界で運営するなど、新しい取り組みを始めた。
手延素麺(播州)  播州手延そうめんは、①揖保川の良好な水質、②周囲を流れる河川を利用した水車製粉、③近隣の農村での良質な小麦の生産、赤穂の塩など恵まれた地域資源の存在、④冬場の乾燥した気候、⑤勤勉な農家労働力 これらを背景に発展してきた。  その歴史は古く、地元の神社に室町時代の古文書が残されている。技術的には、江戸時代の文化年間(1804〜1817)に、揖保郡神岡村(現 たつの市神岡町)の森崎忠右衛門と宝山常右衛門が摂津国灘目(神戸)から素麺製造の新しい技術を持ち帰り、間もなく近在の農村に普及し、農家の季節的な副業として産地が形成された。  また、文政年間(1818〜1829)には灘目産地が採用している株仲間を参考にして組織化を図り、龍野藩により龍野の物産として積極的に保護されて、発展した。幕藩体制が崩壊し廃藩置県が行われると、地場の有志が同業組合と似た明神講を組織して、事業の取締り、職工賃金の標準化、水車粉ひき賃の協定などを定め、製品の改善に努めた。これが今日の協同組合の基礎となった。  現在、「揖保乃糸」はきめこまかい味で知られ、生産量では全国の約40%を占めている。しかし、例年10月〜4月の限定生産であるため、近年、生産者の高齢化等による後継者不足が冬季労働力の確保を困難にし、生産の中心は北部の宍粟市周辺に移行している。そのため組合を中心とする手延そうめん業界は合理化による生産性向上を図っている。

多可町

品名 説明
杉原紙
兵庫県指定伝統工芸品
 杉原紙は、兵庫県の中央部多可町で今日も古来の技法で製造されている。その歴史は古く、7世紀後半と推定されており、杉原紙の前身である「播磨紙」は奈良時代に日本一と評価された。当時は、祝儀贈答の品物として珍重され、奈良時代は写経用、鎌倉時代は幕府の公用紙に用いられていた。室町時代の中頃からは一般でも使用できるようになり、証書や手紙など重要な文書の用紙として愛用され、江戸時代には浮世絵•版画用にも用いられるようになった。  杉原紙の生産は、大正末期にいったん途絶えたものの、昭和45年に往時の技法が再現された。今日では書道用和紙やカラフルな民芸紙類をすいており、多くの愛好家に好評を博している。

たつの市

品名 説明
手延素麺(播州) 播州手延そうめんは、①揖保川の良好な水質、②周囲を流れる河川を利用した水車製粉、③近隣の農村での良質な小麦の生産、赤穂の塩など恵まれた地域資源の存在、④冬場の乾燥した気候、⑤勤勉な農家労働力 これらを背景に発展してきた。  その歴史は古く、地元の神社に室町時代の古文書が残されている。技術的には、江戸時代の文化年間(1804〜1817)に、揖保郡神岡村(現 たつの市神岡町)の森崎忠右衛門と宝山常右衛門が摂津国灘目(神戸)から素麺製造の新しい技術を持ち帰り、間もなく近在の農村に普及し、農家の季節的な副業として産地が形成された。  また、文政年間(1818〜1829)には灘目産地が採用している株仲間を参考にして組織化を図り、龍野藩により龍野の物産として積極的に保護されて、発展した。幕藩体制が崩壊し廃藩置県が行われると、地場の有志が同業組合と似た明神講を組織して、事業の取締り、職工賃金の標準化、水車粉ひき賃の協定などを定め、製品の改善に努めた。これが今日の協同組合の基礎となった。  現在、「揖保乃糸」はきめこまかい味で知られ、生産量では全国の約40%を占めている。しかし、例年10月〜4月の限定生産であるため、近年、生産者の高齢化等による後継者不足が冬季労働力の確保を困難にし、生産の中心は北部の宍粟市周辺に移行している。そのため組合を中心とする手延そうめん業界は合理化による生産性向上を図っている。
醤油  龍野醤油の醸造の始まりは、天正15年(1587年)と伝えられている。業界が順調に発展した背景には、①龍野地方の中央を流れる揖保川の水質が醤油醸造に適していること、②播州平野で産出される良質の大豆、小麦、米と赤穂の塩など必要な主原料が容易に入手できたこと、③揖保川を利用した舟便で網干港から京都、大阪、神戸の大消費地への輸送ルートに恵まれたこと、④龍野歴代藩主が積極的に産業奨励政策を採ったこと等がある。 現在では、千葉県、香川県とともに全国三大産地の一つに数えられている。  寛文年間、当時醸造業者の発案により、醤油もろみに米を糖化した甘酒(龍野は古くから酒造地として有名であった)と添加して搾ったところ、色がうすく香りの良い「うすくち醤油」が発明された。独自の風味が京、大阪の上方の嗜好に合い、人気を得た。龍野醤油業界は、すでにこの当時で年産7,200kl(4万石)を出荷しており、今日の発展の基礎を固めた。  明治9年に業界の組織化を行い、昭和初期には組合員62名を数えた。また、うすくち醤油の生産は年間33,000kl(18万石)に達した。その後、戦争により一時低迷したものの、昭和28年頃から再びその生産は活発化した。  昭和46年4月、中小企業近代化促進法により組合員の殆どが参加して共同出資による龍野協同醤油(株)を設立し、生揚醤油(もろみを搾った状態のもの)の共同生産を開始した。各組合員は、生揚をもとにして高品質醤油を生産し、各地市場の好評を博している。  また、近年の消費者の嗜好変化等に合わせるため、「つゆ・だし」等の醤油関係製品の開発や健康志向に応えて醤油に含まれる機能成分を生かした製品開発が行われている。
皮革(一次生産)  兵庫県における製革業の歴史は極めて古く、弥生時代後期に大陸からの帰化人が鞣製技術を伝え、その基礎を築いたとみられている。その後、江戸時代中期に全国的な商品経済の発達と姫路藩の重商政策のもとに大きく発展した。  当時、既に地域的な分業が行われており、鞣製部門は市川流域をはじめ西の揖保川流域及び東の猪名川流域に沿った地域に発達し、加工部門は姫路城下町の中二階町から東二階町にかけて展開していた。また、原皮は大坂商人を通じて調達され、大地主のもとで村民による賃加工が行われていた。  明治期になって近代的鞣製法が取り入れられ、大正期に軍需専門化が行われ、急速に企業化が進んだ。  戦後は強制的な軍需専門化は分裂し、小規模民需産業として再出発した。業界は、昭和26〜38年の間に著しい成長を遂げ、昭和40年代の後半に入り、経営の合理化や設備の近代化を進展させた。  現在、姫路市の高木•御着•網干、たつの市の松原•誉田•沢田及び太子町などが主な産地になっている。企業数、出荷額では全国の2分の1以上を占め、特に成牛革の生産量は約7割のシェアを誇っている。

丹波市

品名 説明
丹波布
兵庫県指定伝統工芸品
 江戸時代末期に始まる丹波布は、明治末ごろまでは「佐治木綿」とよばれ、綿から紡いだ手紡ぎ糸を縦横に用い、屑まゆから採った「つまみ糸」を横糸に交織させるため、通常の木綿布と風合いが異なっている。  藍、山桃、こぶな草などの植物染料を用いて染め上げた糸が織りなす縞や格子柄は、素朴な温かさを持っている。  丹波布は綿から糸を紡ぎ、手織りばたで織り上げるのが特徴で、現在ではこのような織物は非常に珍しい存在となっている。
稲畑人形
兵庫県指定伝統工芸品
 赤井若太郎忠常が、弘化3年(1846年)に創始した稲畑人形は、良質の土粘土を原料とし、素朴で親しみのある土人形である。  初代と共に2代目赤井若太郎佐久、3代目赤井若太郎直道は明治•大正と伝統文化を普及させたが、昭和の中期3代目他界後数年途絶えた。その後、妻赤井みさ代が4代目として復活させ、再び世に広めた。  現在は5代目赤井君江が伝統技術を継いでおり、人形製作教室を開催するなどして、技術の保存及び伝承に取り組んでいる。

豊岡市

品名 説明
豊岡杞柳細工
経済産業大臣指定
 杞柳製品の製造は、豊岡市のほぼ中央を流れる円山側のほとりに自生していたコリヤナギを利用して奈良時代に始められ、現在も奈良県の正倉院に保存されている。  豊臣時代城下町の形成と共に産業としての歩みが始まり、江戸時代初期に豊岡藩主となった京極家が熱心に藩の専売品として保護育成に努め、全国に豊岡の柳行李として知られるようになった。  明治14年、バンドと取手を取り付けた手に持てる「こうりかばん」が作られ、手に提げる物の製造が始まり、明治42年創案したバスケットは大正バスケットの全盛時代を築き、果物籠、洗濯籠、魚籠等数々の日用品が製造され、海外に輸出し大きく発展した。  物を運ぶのに適した柳行李は戦争の度に軍用行李として大量生産され、戦後は買い物籠、盛り籠、花籠、等様々な製品が生産された。  昭和48年、中国との国交回復以後、国際化の進展に伴い、次第に海外からの安価な製品の流入が増加し、豊岡杞柳製品の生産は減少の一途を辿った。  平成4年、国の伝統的工芸品の指定を受け、後継者の育成に努めた結果、現在では、若い伝統工芸士がつくるおしゃれな手提げ籠が注目を集めるようになり、平成15年度のグッドデザインひょうご大賞を受賞するなど、取り組みの成果が実を結びつつある。  なお、杞柳の語源は、「孟子」の「人性ヲ以テ仁義ヲ為スハ、猶ホ杞柳ヲ以テ、杯倦ヲ為ルガゴトシ」(本来、自然なままの人性に、仁義の気質を持たせるのは、ちょうど杞柳=コリヤナギで曲げ細工をつくるようなものである)により、コリヤナギの学名を持つ柳の漢字名である。
豊岡かばん 豊岡地方では、江戸時代より発展していた杞柳産業を基盤に、大正末期から昭和にかけてファイバーかばんが製造され始めた。柳行李の販売網に乗って、急速に伸び、昭和10年頃には当時の主産業になった。 原材料不足で対戦中は停滞したものの、戦後の復興は早く、ミシン縫製の導入、オープンケースの考案、新素材としての合成皮革・ナイロン等の活用など、様々な改革を行った。今日ではこれらを素材とする鞄の生産では、全国の60%を占めている。また、産地は「メーカー」、「産地問屋」、「かばん材料商」、「下請」による構造となっている。 昭和52年に始まった円高によって昭和53年度の生産高は最低を記録した。 平成6年には「豊岡・世界のかばん博」開催を契機に、国際かばん都市の創造を目指して、豊岡産地の情報発信に努めたが、平成7〜8年頃からの円高の影響により、輸入品との競争が激化し、国内向けの出荷数量が激減した。それに対応するため、産地では、集積活性化法に基づき、平成7年度(〜11年度)から生産工程の合理化、IT化、新製品の開発など推進した。 近年は、単にかばんの生産のみならず各種の容器など、あらゆる分野への取り組みや、天然皮革素材の活用が進められ、平成15年には「豊岡グラフィティ」「豊岡トラディショナル」を発表し、豊岡が築き上げてきた資産を活用し、豊岡が様々な技術とスタイルの蓄積された「厚みのある産地」であることをPRしている。最近では異業種との交流が積極化し、販路開拓、新製品開発などで成果をあげてきた。 平成16年には、台風23号により産地内の多くの企業が被害を受けたが、16年度より取り組んでいたJAPANブランド育成支援事業は平成17年7月にIFFに出展し、高い評価を得た。 また、商標法改正により平成18年4月1日より導入された地域団体商法制度に「豊岡鞄」も地域ブランドとして申請し、平成18年11月10日付で兵庫県の中では第一号の登録となった。その後、東京での展示会開催、雑誌広告などPR活動を行っている。その結果、アパレル業界、雑貨業界など、他業界から注目を集めている。
出石焼
経済産業大臣指定
 出石焼は、垂仁天皇時代(紀元前29年〜西暦70年)に天日槍命が陶士を従えて但馬出石に到来し、永住の地と定め、衣食住に必要な食器類を焼いたことに始まったと伝えられている。  出石焼の形成は、天明4年(1784年)に伊豆屋弥左衛門が出石郡細見村に土焼窯を開設したことがきっかけとなった。寛政元年(1789年)、二八屋珍左衛門が出石町谷山の柿谷において白色原石を発見したことが現在の出石焼の基礎となった。  安政期(1854〜59)には、当時の著名な染付師鹿児島屋粛平が出石町西位花山に窯を築き、優れた作品を作りだした。その作品は現在でも愛陶家の垂涎の的となっている。  明治初年に廃藩置県が行われた際、士族に職業訓練を行うため、佐賀県から陶工柴田善平を招聘し、士族の子弟数十名を集めて伝習された。次いで県立陶磁器試験場が設立され、石川県から招聘された画工友田安清が白磁彫刻等の美術品の製作を行い、白磁出石焼の名声を高めた。また明治35年米国セントルイスで開催された万国博覧会において出石焼は金賞を受賞し、現在に至るまでこの作品が出石焼の代表作とされている。  現在出石町において6社が生産を行っている。昭和55年3月には、通産大臣から伝統的工芸品に指定された。
城崎麦わら細工
兵庫県指定伝統工芸品
 城崎麦わら細工は、江戸中期に因州(鳥取県)の「半七」という人が城崎に湯治に訪れた際、宿賃の不足分を補うため、麦わらを多様な色彩で染め、こま、竹笛などの玩具にはり付け、浴客の土産としたのが始まりと伝えられている。 半七のアイデアは人々の興味のひき、売れ行きがよかったため、糸巻き、指輪など新しいものが考案されたといわれている。今日では、その模様は精巧豊麗な幾何模様のほか、花鳥、山水図などもあり、他に類を見ない伝統工芸品としてその独特の持ち味が高く評価されている。

西宮市

品名 説明
清酒(灘五郷)  灘地方の酒造の歴史は1624年の西宮における醸造が最初とされるが、伝承的にはもっと古く、元弘•建武の昔から行われていたと伝えられる。  灘五郷、西宮市今津から神戸市灘区までの約12㎞にわたる沿岸一帯を指し、東から今津郷、西宮郷、魚崎郷、御影郷、西郷の五つの郷の総称である。  この地域に酒造業が発達した理由としては、①酒米の横綱「山田錦」の産地である播州平野に近いこと、②鉄分が少なくリンやカルシウム、カリウムを豊富に含む良質の硬水である、西宮の水「宮水」に恵まれていること、③丹波杜氏の酒造技術が優秀であること、④北に六甲山、南に大阪湾と遠く拓けた地形による気候風土が酒造りに適していることなどが挙げられる。さらに、京都や大阪に近いだけでなく、江戸との舟航の便にも恵まれていたことも重要な要因である。  このように歴史的に全国的市場を開拓していたうえ、その経営が専業で行われてきたため経営規模は大きく、生産出荷量は現在、全国の26%を占める日本一の酒どころである。  阪神•淡路大震災では多大の損害を被ったが、各方面からの支援と各社の努力により現在では復興を遂げている。しかし、震災を機に中小規模のメーカーを中心に事業の共同化や、委託製造により販売に特化する企業も見られるなど、産地の構造にも大きな変革が訪れている。   また、酒販免許の自由化等の規制緩和により酒流通•小売業が激変しており、従来の「造り酒屋→問屋→販売店」という販路が崩れ、大手食品卸の参入とスーパー、ディスカウントストアの進出により、酒流通システムに大きな変革の波が押し寄せている。
名塩紙
兵庫県指定伝統工芸品
 名塩紙は、西宮の北部、武庫川上流、名塩川に沿った名塩地域に、越前から抄紙技術が伝わったことから始まったといわれている。  江戸時代には、日焼けせず保存性に優れているため、藩礼の地紙、高級な襖や屏風の上張り、下張り用として重用された。当時、名塩は「名塩千軒」と称されるほどの隆盛を誇った。  現在では、箔打ち原紙、生漉間似合紙が主生産品であり、独自の技法を守り続けている。なお、現在、若年女性に人気の「油とり紙」は、この名塩紙を用いた箔打ち原紙の使い古しが最高の品とされている。
和ろうそく
兵庫県指定伝統工芸品
 和ろうそくは、江戸時代に姫路藩の藩業として製造されていた。現在製造をおおなっている松本商店は明治10年頃姫路城下の製造業者から分家した。戦後西宮市に移転し、寺院の燈明用に20数種類の製品を製造している。

西脇市

品名 説明
播州織 播州織は西脇市を中心に加西市、加東市、丹波市、多可郡、神崎郡の四市二郡にまたがり、県下有数の地場産業として成長してきた。 その起源は古く、寛政4年(1793年)比延庄村(西脇市比延町)の大工飛田安兵衛が京都西陣からその技術を導入したことが始まりと伝えられてる。明治のはじめには、津万郷(市内津万)を中心に60〜70軒の織布業者が、機業を営んでいた事実が資料に記されてる。 明治25年には、多可郡縞木綿業組合を設立して組織化が始まり、全国でも類をみない強固な組合精神が現在も受け継がれている。 当時の主要製品は、国内向けの着尺地(バンタツ)が中心であったが、第一次世界大戦を境に海外市場の混乱に乗じ東南アジア向け先染織物の販路開拓に成功して輸出向けが中心となった。昭和に入ると、業者数及び生産額が増加、品種も多様化した。昭和5年には広幅輸出用織機8700台を数え、年間1億平方ヤードを生産する一大輸出産地として第一次黄金時代を築いた。 戦後は、発展途上国の繊維工業の発展とともに、従来の東南アジアを主力とする仕向地での競争を避けて、高級綿布生産に産地機構全般を再結成した。昭和29年頃よりアメリカ市場の開拓に成功するとともに同市場を中心としてカナダ、オーストラリア、中南米、アフリカから欧州の一部まで販路を広げ、ほとんど世界各地に商圏を確立し、第2次黄金時代を迎えた。 昭和38年頃より従来の綿スフ織物一本やりの保守的かつ画一的な生産形態が徐々に改革され、化合織ギンガム、化合織ドビー、麻混など各種の新品種が開発されて生産品種に弾力性が加わり、国際市場における競争力は一段と強化された。近年は構造改善事業により、設備の近代化・合理化を推進し、製品の高級化や高付加価値化を図って国際市場における競争力を充実させた。さらに昭和51年度より播州織総合開発センターを軸として、新商品・新技術の開発、人材育成、情報の収集提供、各種試験検査などソフト面の事業を行い、積極的に取り組んできた。しかし、昭和60年以降の急激な円高は、輸出環境を一層厳しいものにした。これに対し産地では、高級化や国内市場の拡大を図り対応した。 市況は安価な輸入品の増加に加え、国内景気の低迷などから国内需要が大幅に減退し、輸出環境も悪化している。そのため業界は、準備工程の円滑化を図るため「協同組合播州織総合準備センター」において新たに畦取りを開始し、経通し作業とあわせて準備工程の円滑化を図ると共に、新素材・四位製品の開発。見本市の開催など需要の換起を図るための対応策を展開している。 また、産地全体の問題でもある産業廃棄物の処理については、「播州織産地対応システム」を構築し、残糸の再利用を進めいている。 産地では、各展示会において、織布業者による出店参加をすすめると共に、産地内関係業界の共同申請により取得した、地域ブランド『播州織』とそのロゴマークの普及・PRを進めている。
播州毛鉤
経済産業大臣指定
 加東市、西脇市及び丹波市周辺の釣針製造業は、徳川末期に飢餓救済手段として、土佐の国(高知県)から釣針製造技術が移入され、農家の副業として創始された。  明治末期から大正初期にかけて手工業から機械製釣針に変わり一部設備は動力化され、量的にも技術的にも著しい進歩を遂げた。我が国を代表する釣用品メーカーが存在する一方で、家内工業の零細企業も多く企業間格差は広がっている。  現在、産地の生産高は全国の約90%に達し、全国一である。  産地の特色として、加東市周辺が釣針の単体販売が主であり、西脇市周辺は主として内地向釣針を中心としており、精巧な擬餌針(毛鉤)等の生産も多い。  また、一部の大手企業は、釣竿等関連分野への進出を活発に行っている。  「播州毛鉤」については、天保年間(1830〜1844)頃に京都から製法が伝わり、江戸末期には、西脇市を中心に産地が形成された。  明治初期に数々の博覧会で賞を受けた手細工による優れた技法は、明治末期から大正にかけてさらに磨きがかけられ、今日に伝えられている。  昭和62年4月には通産大臣(元経済産業大臣)より伝統的工芸品に指定され、伝統工芸士5名が活躍している。

姫路市

品名 説明
姫路の菓子 姫路の菓子が全国に名を知られるようになったのは、江戸時代の後期からと言われている。この頃の藩主酒井家の歴代の当主が教養人であり、茶の湯を好んだことから、姫路城下の文化は大いに発展することとなった。 しかし、天保年間(1830〜43)の姫路藩主酒井忠以の頃、藩の財政は窮乏し、負債額は約73万両にも及んだため、家老の河合寸翁は藩の財政再建を志し、藩政改革を行うとともに、農工業を復興し、木綿会所を開設するなど、木綿、小麦粉、菜種油、砂糖など諸国の物産を城下に集積して商業、物流を盛んにした。この寸翁が藩主同様茶人であったことから、産業復興のイカンとして和菓子作りを奨励し、修行のため藩命により職人を江戸、京都、長崎まで派遣し、製造技術を習得させた。この時、職人たちを特色づけるものとして、油菓子、カリントウがある。油菓子は、ポルトガル、オランダ船により、長崎に伝えられたものが全国各地に広がったものであるが、姫路では藩主酒井忠以の時代以降、藩の援助育成のもと、また、各地から集積された良質の小麦粉、菜種油の活用することにより、「姫路駄菓子」として全国にその名を馳せることとなった。昭和初期までは、姫路市内の船場本徳寺の門前に駄菓子屋が軒を連ね、大変な賑わいであったが、戦災によりすべて消失したため、製造業者もしない各地に分散してしまった。しかし、戦後、消費者の嗜好の変化により、他の地域の業者が次第に減少していく中、姫路の製造業者は、生産の機械化、合理化を図り、後継者、技術者の育成に努めた結果、現在、駄菓子では全国有数の産地となった。 菓子生産は、消費者の嗜好に強く左右されるため、製法、品質、デザインなどの新しい技術の開発が常に要求される。姫路の菓子は、江戸時代以来の伝統を活かすと共に、近年では、洋菓子部門も充実させるなど消費者のニーズに答えている。 また、1952年に設立された姫路菓子組合を中心に、原材料の共同購入や技術者養成講座の開催、品質の工場や販売方法の研究に努めるほか、4〜5年毎に開催される全国菓子大博覧会に積極的に出店し、毎回、名所総裁賞をはじめ多くの賞を受けるなど、産地全体としての発展に取り組んでいる。
皮革(一次生産)  兵庫県における製革業の歴史は極めて古く、弥生時代後期に大陸からの帰化人が鞣製技術を伝え、その基礎を築いたとみられている。その後、江戸時代中期に全国的な商品経済の発達と姫路藩の重商政策のもとに大きく発展した。  当時、既に地域的な分業が行われており、鞣製部門は市川流域をはじめ西の揖保川流域及び東の猪名川流域に沿った地域に発達し、加工部門は姫路城下町の中二階町から東二階町にかけて展開していた。また、原皮は大坂商人を通じて調達され、大地主のもとで村民による賃加工が行われていた。  明治期になって近代的鞣製法が取り入れられ、大正期に軍需専門化が行われ、急速に企業化が進んだ。  戦後は強制的な軍需専門化は分裂し、小規模民需産業として再出発した。業界は、昭和26〜38年の間に著しい成長を遂げ、昭和40年代の後半に入り、経営の合理化や設備の近代化を進展させた。  現在、姫路市の高木•御着•網干、たつの市の松原•誉田•沢田及び太子町などが主な産地になっている。企業数、出荷額では全国の2分の1以上を占め、特に成牛革の生産量は約7割のシェアを誇っている。
マッチ  わが国のマッチ産業は、明治9年頃東京で始まり、急速に国内市場を満たすと輸出中心の産業になった。そのため、貿易に有利な大阪•神戸近辺に業者が集積した。さらに、労働力や技術的な条件などもあり、兵庫県が全国のほとんどと生産するようになった。  その後、輸出不振、外国企業の進出、過当競争等数々の変化を克服した業界は、昭和27年に組織化され業況も安定するようになった。昭和40年代からマッチの需要の中心が広告用に移り、供給体制も大きく変化せざるをえなくなり、設備の近代化を中心に業界の体質改善に成功した。  現在も日本の広告マッチは、欧米をはじめ世界各国へ輸出されている。  しかし、使い捨てライター等の普及により、マッチの消費は大幅な減少傾向にある。業界は需要の落ち込みに対応するため、培った経営資源を利用して、土地の有効活用(駐車場•テニスコートなど)、ラベル印刷技術を活かした印刷業界への進出、広告マッチ販路を活かした販促商品の開拓(紙おしぼり•ティッシュペーパーなど)、その他の分野へ経営の転換•多角化を促進している。  平成17年には国産マッチ生誕130周年記念式典を神戸で挙行し、新たな歴史を刻んでいる。  マッチに関しては平成19年度から新商品開発部会を組織して、需要開拓の方策を継続して検討する中で、防災用缶詰マッチという新たなジャンルを開拓した。  平成21年にはマッチ専門店を業界で運営するなど、新しい取り組みを始めた。
 鎖製造業は姫路市白浜町(南部海岸地帯)を中心に28社が生産を行っており、全国生産高の約60%の生産を誇っている。  当地には、徳川中期より松原釘と呼ばれる釘の火造鍛造技術が発達しており、それが明治の中ごろ船釘の製造に替わった。そして大正5年、大阪から鍛造による鎖の製法が導入されたことが姫路の鎖製造の始まりとされている。  その後、第二次世界大戦中に細物の電気溶接機が開発され、昭和32年には外国製の大型溶接機(フラッシュバット)を導入、順次国内産による溶接機に移り、現在では火造り鎖はほとんどみられない。当産地の鎖は、線径が数十ミリのものから自動車のタイヤ鎖よりも細いものがあり、また材質もアルミなどの製品があり、多様化している。
明珍火箸
兵庫県指定伝統工芸品
 明珍火箸は19世紀の初め、甲冑師がその技術を生かして火箸を作ったのが始まりである。火箸の型は20種類ほどあり、現在代表的なものはツクシ型、ツヅミ型、ワラビ型、カワラクギ型の4種類となっている。  最近では、火箸を利用して風鈴なども作られている。火箸が触れ合ったときに響く音色は、日本的な趣を備えており、逸品として、評価されている。
姫革白なめし革細工
兵庫県指定伝統工芸品
 白革なめしは、4〜5世紀頃姫路地域で始まったといわれている。戦国時代には多様な色彩で染色され、甲冑や馬具の装飾に使用されていた。  その後、技術•技法を守り続け、18世紀に入ると、羽織、足袋、財布などの日用品が作られるようになり、現在ではブックカバー、ハンドバッグ、札入れ、がまぐちなど用途も多様化し、広く愛用されている。
しらさぎ染
兵庫県指定伝統工芸品
 播磨地方の藍染物の歴史は古く、奈良時代より播磨の褐染としてしられていた。羽柴秀吉が天正5年(1577)に播磨を平定し安土城の織田信長に謁するときにも献上されたと伝えられている。  江戸時代には、姫路藩が藍製造を藩業として奨励したこともあり、藍染物の生産は隆盛を極めた。その後、明治時代にとだえたものの、伝統の藍染に播磨のシンボル姫路城やシラサギを図柄に取り入れ、昭和44年にしらさぎ染として復元された。
姫路仏壇
兵庫県指定伝統工芸品
 播磨地方の藍染物の歴史は古く、奈良時代より播磨の褐染としてしられていた。羽柴秀吉が天正5年(1577)に播磨を平定し安土城の織田信長に謁するときにも献上されたと伝えられている。  江戸時代には、姫路藩が藍製造を藩業として奨励したこともあり、藍染物の生産は隆盛を極めた。その後、明治時代にとだえたものの、伝統の藍染に播磨のシンボル姫路城やシラサギを図柄に取り入れ、昭和44年にしらさぎ染として復元された。
姫路独楽
兵庫県指定伝統工芸品
 姫路における独楽の始まりは、幕末から明治初期頃とみられている。昭和初期まで5〜6軒の製造業者が存在し、玩具問屋を通じて播州だけでなく、大分、山口、愛媛など、瀬戸内海沿岸各地へ販売された。現在は姫路で1業者が製造を続けている。
姫路帳子玩具
兵庫県指定伝統工芸品
 張子は、室町時代に中国から伝わったといわれ、江戸時代に反故紙の豊富な城下町を中心に、全国各地で人形や玩具が作られるようになった。姫路では明治初期に豊岡直七が張子の製作を始めた。現在では香寺町で4代目の業者が生産している。

三木市

品名 説明
利器工匠具 三木金物は安土・桃山時代、当時の領主別所氏の保護下で成長した。しかし天正8年(1580) 、豊臣秀吉が三木城を攻め落とすと、三木に定住していた大工や鍛冶が離散した。秀吉は三木の復興に努め、別所氏の保護政策を引きつぎ、年頁の減免措置等を行ったため、再び多くの大工、鍛冶が集まるようになった。 三木金物は、伝統的な和鉄、和銅の鍛錬によって鋭い切れ味を誇っていた。 明治30年ころ、洋鉄及び洋鋼の導入に成功し、今日のような全国展開の基礎をうちたてた。販路の拡大と共に、時代の要請に基づき従来ののこぎり、のみ、かんな等の大工道具のほかに新しい製品が製造されはじめた。具体的は、日清、日露戦争の軍需に対応し、ショベル、スコップ等などを製造する近代的な工場が創設された。 大正6年、兵庫県立工業試験場(現在の工業技術センター機械金属工業指導書)が設置され、学術研究、技術指導、品質向上、機械化などに貢献した。 第二次正解大戦の勃発により、企業の統廃合が強制され、三木金物も軍需生産に転換した。戦後は、荒廃した国土の復興と建設が始まり大工道具の需要の急速な拡大に対応することが急務となった。三木ではいち早く軍需から民需への再転換が行われ、設備の近代化や販売網の拡張が進展した。その後、高度成長期を通じ、三木金物の販路は一層拡充された。 輸出は、米国を中心に欧州、韓国、東南アジア、豪州等世界各国に向けて行われるようになった。活路開拓のため、ドイツケルン市での見本市には毎年参加している。 近年は、電動工具の発達や、新建築様式の普及に対応した新建材用具の開発、生活様式の多様化に対応するためにに日曜大工用品、作業工具、園芸用品等の開発がおこなわれた。また伝統技術を応用し、農業機器用に組み込まれる刃物や部品の生産も活発である。 昭和60年秋頃に始まった急激な円高の影響で、産地ではコストダウン、円建て輸出などの対策に取り組んだ。そして昭和62年以降、公共工事や住宅建設の盛り上がりとともに国内景気が回復し、三木金物の生産・出荷は伸張した。 しかし、阪神・淡路大震災以降は、建築工法の変化やゼネコンの不信、安価な中国製品の輸入拡大、消費不況などにより、従来のような出荷・販売は望めない状況となっており、多様化する消費者ニーズに適応する新製品開発に応じた設備投資も企業規模からすれば困難である等、抱える問題は多い。 三木市および隣接市町で生産されるあらゆる金物製品に仕様できる「三木金物」の地域団体商標を平成20年2月29日に取得した。
播州三木打刃物
経済産業大臣指定
美吉籠
兵庫県指定伝統工芸品
 吉川町では、古くから農業の副業として竹籠が作られていたが、美吉籠の始まりは、明治18年、戸田甚之助が竹細工土産品を創作し、有馬湯治客に販売したことに由来する。  その独自の網目模様は、正倉院の宝物の中に収蔵されている華籠の技法を研究したもので、主原材料の竹は、吉川町から産出される苦竹と淡竹のみを使用している。その横編み技法は「二本とび網代編み」と呼ばれ、全国的にも珍しい独特の技法を誇っている。 

南あわじ市

品名 説明
手延素麺(淡路)  淡路手延素麺の歴史は古く、徳川時代の末期と伝えられている。  福良の渡久平氏が伊勢参りの帰路、大和国の三輪の里で麺製造法を習得し、製造をしたのが始まりである。  南淡地方は麺製造に適した気候であること、休漁の増える冬季の漁業者の副業として適していたことなどの要因により、業者は次々に増加した。また、当地は天然の良港で、各地の船舶の寄港地で地元にも船主が多かったため、製品の輸送はこれらの便船により行われ、和歌山県や徳島県方面へ販売されていた。原料粉は淡路産小麦で、島内水車により製粉されていた。  明治35年頃、三原郡素麺同業組合が設立された。その後、戦時中は県統一組合となり、生産していたが、統制廃止により淡路手延素麺協同組合が昭和27年8月に発足した。  製品は「おのころ糸」、「御陵糸」、「淡路糸」の三種類に大別される。御陵糸は代表的製品として生産量も多く、高級品として商社を通じて料亭や飲食店のほか、一部スーパーなどでギフト用を中心に販売されている。
粘土瓦  本県における粘土瓦製造の歴史は古く、淡路国分寺(旧三原町)等の発掘調査から奈良時代に始まったと推定されている。  また、明石地方では室町末期に社寺、築城用に作られていた。これが江戸中期に至り、当時の明石城主松平直明が歓業政策のひとつとして採り上げて以来盛んとなり、県下各地で生産されるようになった。  現在では、淡路地方を中心として姫路、丹波方面等においても生産されているが、平成7年に発生した阪神•淡路大震災の際の、瓦の重さが家屋倒壊の一因となったとする説の流布によりイメージダウンが甚だしく、いまだに尾を引いている。  業界では、当時瓦の無償提供キャンペーン、その後テレビCMの放映、パンフレットの配布などの対策を講じ、イメージ改善に努めながら新商品開発など販路の拡大に努めている。特に淡路瓦は、県内99%の粘土瓦を製造し、近年の飛躍的な製造技術の向上により、寒冷地でも使用が可能となり、販路の拡大、需要喚起に向け鋭意努力している。 ⑴淡路地区  淡路瓦は寛永年間には現在の西淡町津井を中心に発展し、明治に入って急速な需要の伸びに支えられ産地を形成した。もともと原料粘土が豊富な上に大消費地(京阪神)への近接性海上輸送の利便などが当地発展の要因である。  当地方では、需要の推移に対応して昭和36年頃からトンネル窯による釉薬瓦の生産技術を導入し、製造を開始した。これが時代のニーズにマッチし、急速に生産量が増加したが、昭和60年頃から建築様式の変化、本物志向等により、いぶし瓦が急速に販売を拡大するにつれて、釉薬瓦製品メーカーも次第といぶし瓦に転換していった。陶器瓦は、現在、時代にマッチした洋風(平板瓦)を製造し、需要を更に推し進めている。他方、伝統的ないぶし瓦は良質の粘土と特有の製法により、優雅な高級品として根強い人気を得、全国の51%を占めている。しかし、震災以降、工業化住宅の伸張から需要が徐々に減少し、現状では、その当時から比べると3割程度の操業になっている。 ⑵明石地区  藩主松平直明の勧業政策以降、大きな発展を遂げた明石瓦は、従来のいぶし瓦の需要の減少に伴い、昭和12年頃、愛知県三河地方から塩焼瓦の製法を導入し、30年代には最盛期を迎えるに至った。現在では製品の主流が釉薬瓦の高級品に移行していたが、押し寄せる波にうち勝てず、現在では、粘土瓦製造事業所はなくなった。
淡路鬼瓦
経済産業大臣指定
 淡路瓦の起源は、藤原京時代(694〜710)の窯跡の出土により、約1,300年前といわれている。  江戸時代初期の慶長15年(1610年)、淡路は姫路の池田輝政の領国となり、輝政の三男忠雄が9才で淡路•洲本に6万石の所領を支えられ、岩屋城を修復。洲本市由良で成山城を新築した。このとき忠雄は明石から清水理兵衛という瓦職人を招いて瓦を焼かせた。これが近世の淡路瓦のはじまりとされている。理兵衛は、洲本市の古茂江で城の瓦を焼いていたが、その後、古茂江にいた瓦職人は、都志•尾崎などで焼くようになった。寛永3年(1628年)には、津井で瓦の製造が始まり、これが現在の淡路瓦の源になった。  現在、瓦産業は西淡町の基幹産業であり、全国的にも淡路は、三州(愛知)、石州(島根)とともに三大産地と呼ばれている。